「闇の拳3」
                                 by JIN さん
                         
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  4月17日PM00:14
 2つの巨大なビルにはさまれた敷地におかれている円形テーブル群に、人影はまばらであった。近くに大きなレストランができたせいか、昼食を外で食べる姿が見かけられなくなっていた。
 しかし、ゆき由紀・サワイ・ヤンソンは、この場所が好きだった。とくに花粉症に悩まされることもない由紀としては、水色の空をやさしい風が吹き渡るこの季節、ほとんど昼食は、ここですませるようにしていた。ビルの稜線によって切り取られているとはいえ、見上げた先に、蛍光灯のへばりついた低い天井がない空間での食事は、なによりも心をリフレッシュさせてくれるのだった。
 今日のランチは、近くのコンビニで買い込んだおにぎりとサラダ、それにお茶というところである。アメリカへの長期留学も彼女の和食嗜好を変えることはできないようであった。もっとも、彼女の容姿だけをみれば、外人女性が日本に留学しているといった印象である。
 172センチの長身に薄茶色の長い髪。彫りの深い眼窩と理知的に整えられた双眸は、デンマーク人の父親から受け継いだ形質である。そして、女らしいきめこまかな肌でおおわれた長く白い首筋の下には、同じく父方の遺伝子による抜群のボディラインがつづいている。
 上から98、59、103。欧米化傾向を強める日本人女性といえども、この迫力のプロポーションを手にできる確率は、きわめて低い。その体躯は、さわやかな紺のダブル・スーツと膝上までの同色のスカートに包まれ、姿勢よく白い椅子に沈められている。膝下に伸びる美しいふくらはぎをおおうタイツを組む。何気ない仕草もエレガントであった。
 白い円形テーブルに、椅子が4つ。座っているのは、自分だけである。
<じゃあ、いただきます・・・>
 苛烈なビジネスの渦中から、解き放たれる時間である。口元がすこし緩んだ。
 そのとき、右隣の椅子が、後ろに引かれた。少なくとも、由紀はそう感じた。
 どなたかしら、と思って顔をあげようとしたが、その美しい顎のラインが動く前に、ことは終わっていた。
 彼女の死角から現れた何者かの拳が、一瞬の衝撃となって、彼女の腹に埋め込まれたのである。
「・・・う・・・ん」
 その呻き声を自分が発したかどうかさえわからないほど、突然に、由紀は意識を奪われた。それほど拳の当たりは峻烈であった。
 彼女に当身をくらわせたのは、スーツ姿の男であった。むろん、彼女の記憶中枢には、一コマの像さえ刻まれてはいない。由紀の視野の外からあらわれるなり、椅子を引くそぶりで体をかがめる。しかし、それは、実際には、彼女の腹に右拳を当てるためのアプローチであった。
 男の鋭烈な右拳は、フックとして急角度に弧を描き、由紀の紺色のスーツの腹を瞬間、深く沈みこませた。毎日の激務にかまけ、ほとんど体を動かしていない由紀の腹筋は、こねあげられたパン生地の柔弱さで男の拳をめりこませた。生まれてはじめて気絶させられたため、由紀は、行儀よく両手を膝の上に乗せた"いただきます"の姿勢のまま、一瞬で瞑目していた。
 その姿は、日ごろの疲労から、昼休みにうたた寝する美人OL以上の警戒感を感じさせるものではない。
 誰にも気づかれることもなく由紀を気絶させた男は、巨乳とそれを包むGカップのブラジャーが大きく揺れたことを感じながら、当てた拳をすばやく引き抜き、何食わぬ顔で席についた。
 何事か作業を済ませると、男は女に一瞥すらくれずに席を立った。
「・・・ん・・・うむん・・・」
 黒と灰色で構成された魔夢の回廊から抜け出したのは、それからしばらくたってのことであった。椅子にもたれたまま目を開ける。見慣れたビル群。白い円形テーブルの群れ。手付かずの自分の昼食。それら日常の光景が脳裏にどっと押し寄せてくる。自分のあげた吐息が寝言のように聞こえ、一瞬、頬を染める。なによりもビジネススーツ姿の存在がリアリティ豊かに現実社会を確認させてくれる。
<寝ちゃったのかしら・・・>
 その途端、上体を起こしながら、右手の細い指先が反射的に自分の腹部をさわっていた。鎖骨付近から豊かに張り出した純白のブラウスとスーツが乳房の大きな質量に耐え切れず、急激におちこむ辺りである。
 痛みはない。しかし、自分のなかに非日常的な何かが残っているような感覚が拭えなかった。
<わたし、さっき、お腹を殴られたのでは・・・>
 念のため、、ハンドバックの中身を確認するが、紛失しているものはない。だが、夢を見ただけなのかもしれない、というもう一人の自分の声を、由紀は退けた。
<やっぱり、わたし、ここをやられて気絶させられたんだわ・・・>
 由紀は、腹に手を添えながら、かすかな恐怖を眉根にきざんだ。
 時間をみると、12時38分をさしている。気を失っていたとすれば、20分程度と思われた。もうすぐ午後の始業時間である。オフィスに戻らなければならなかった。
 一体、誰が、なんのために、自分に暴力をふるったのか。彼女にとっては、今はそれを詮索するより、目前の仕事をこなす方が重要であった。
<世の中には、変な人がいるものよ>
 そう割り切って、顔にうかんだ不安を無理矢理、胸の奥にしまいこむと、食事にとりかかった。
 もともと、男まさりといってよい勝気な性格であった。小さな失敗や恐れにとらわれているから、日本の女は、駄目なんだ、というのが持論の女性である。
 多少のむかつきがない訳ではないが、その食欲は旺盛であった。今、食べておかなければ深夜まで体がもたない。毎日の習性が、彼女にそう教えていた。

 4月18日AM1:48
 由紀は、バスルームから出ると、その肉感的な体をタオルにつつんでリヴィングへと帰ってきた。
 終電にちかい時刻まで会社に残り、酷使した体が熱いシャワーと湯舟によって癒されるひとときである。ただ、それは同時に、一人暮らしの彼女にとって、白いバスタオルの胸部を破らんばかりに膨隆させている98センチの巨乳をすきにしてくれる男が、ここにいないことを実感させられる瞬間でもあるのだった。
 前の男とわかれてから、一ヶ月が経過している。あらゆる男女の別離がそうであるように、由紀とその男との別れもまた、辛いものであった。
 放っておくと、過去の記憶が脳裏で自動再生をはじめてしまう気がして、由紀は、テレビのコントローラに手をのばした。
 テレビ番組は、すでに深夜枠である。古い時代劇のもたらす音と映像が、彼女の部屋の必要以上の静寂を緩和してくれる。それを環境騒音に利用しながら、由紀は、寝支度にとりかかっていた。
「・・・では、どうあっても辻斬りの真似事のような振る舞いをするというのですか。そのようなことをなされて、亡き父君が喜ばれるとお思いですか」
 ドラマの舞台設定は、江戸時代であり、深夜の町の小路に侍と女が潜んでいるシーンであった。一人は長身で白頭巾、白い着物と帯といういでたちに二本の刀を左腰に手挟んだ若侍であるが、その胸は形よく盛り上がっている。晒しを巻いているのだろうが、相当な大きさのバストであることがわかる。いうまでもなく、女が男装しているのである。もう一人は、町人風の恰幅のよい年増の女であった。
 その年増の方が年若い女剣士をいさめている。
「むろん、おしの殿に罪なきことは、このかえで楓も承知している。しかし、その父・山城屋吉兵衛は、わが父をいわれなき罪におとしいれた悪党なのだ。山城屋の悪行を暴くには、どうしてもおしの殿の身柄が必要なのだ」
 白頭巾の女剣士はそう言い残し、人通りの絶えた大きな通りに出て行こうとする。しかし、その背後から、年増の女が覚悟の形相でおいすがってくる。その足音に、女剣士・楓が振り返った。
「えい・・・!」
 掛け声とともに、年増の右拳が、楓の腹を突いた。が、女の拳は、白い着流しでおおわれた楓の腹の中央をたしかに突いたにもかかわらず、女剣士は、痛みを覚えるでもなく、平然とたっている。
「許せ、ともえ巴」
 今度は、女剣士の右袖が翻った。白い小さな右拳が、巴とよばれた年増女の太い帯の上部に強く当てられた。"どすっ!"という効果音がかぶさった。
「うっ・・・!」
 巴は、瞬時に気絶して、前屈みに倒れ込む。その大きな体を、楓は抱きかかえ、軒下に座らせた。
「軽めに当てておいた。私が戻るまで、ここで大人しくしておれ」
 ぐったりと眠らされた巴に向かって、小声でささやく。
 楓は、あらかじめ巴が拳で突いてくることを予測して、腹筋に力をこめておいたのであろう。楓には、巴の腕では自分を倒せないことがわかっていたのだった。
 その技に、ドライヤーで髪をブローしていた由紀の手が止まった。目を大きく見開いたまま、テレビの前に座り込む。
 画面のなかでは、楓が潜んでいる傍を、上品な身なりの町娘と女中が通りかかるシーンが進んでいた。火がともった堤燈を手にした女中が前を歩き、その後ろを娘がついてくる。その娘がおしのという名であることに、由紀は気づいた。
 その前に、白頭巾に姿をかくした楓があらわれる。
「な、何者です・・・!」
 女中は、たじろぎながら慌てた声をあげ、堤燈を投げ捨てる。しかし、女中が帯にさした懐剣を抜く前に、白頭巾は、右足を踏み込み、右拳を女中の腹に突きこんでいた。
「はあ・・・っ!」
 崩れ落ちる女中の脇をあざやかにすり抜けながら、左手で長刀の鞘を押し出し、悲鳴をあげそうになるおしのの帯に、柄の尖端を当て込む。
「う!・・・うん・・・」
"どむっ!"という鈍い効果音とともに、おしのの軽い苦悶の表情がアップになった。が、なすすべもなく気絶し、楓の胸に倒れ込む。
「当身で気を失わせただけです。大願成就の暁には、必ず無事連れ帰るゆえ、しばらくのご辛抱を」
 気絶したおしのの寝顔に、そうささやきながら、その体を左肩にかつぎあげる。だが、背後から、"そこまでだ"、という男の声がおこり、驚いて振り返る。そこには、編み笠をかぶった侍が立っている。
「何者です」
「あなたを当身でお連れするよう申し付けられた者です」
その瞬間、楓の腹に大柄な左拳が深々と叩き込まれる。
「うっ!・・・」
 "な、なにをする・・・"との言葉を残して、地面に倒れる白頭巾の肩から、おしのの体を抱き上げる男。そこへ用意よく二体の籠が闇のなかから現れ、気絶したおしのと楓の体を押し込めると、侍とともに悠然と歩み去っていく。
<当身・・・>
 テレビの前の由紀は、いつのまにか、パジャマにつつまれた豊満なバストを両腕で抱きしめるようにして、ドラマに釘づけになっていた。
拳を相手の腹に突きこんで、その自由を奪う技を当身というのだ、ということを、このとき由紀は思い出した。はじめて知ったのではない。彼女が先日別れた男は、空手の有段者であった。その男と付き合っているとき、他愛のないやりとりのなかで耳にしたことがあったことを思い出したのである。
それは、二人で遠方に旅行にでたときのことであった。帰りの新幹線では、二人の乗った車両には、他の客の姿はなかった。男は、由紀の口唇をむさぼり、赤いセーターを内側からつきあげる巨乳を激しく揉みしだいた。やがて、終点に近づいたときだった。"このまま別れたくないな"と男が言い出した。
「じゃあ…わたしのマンションくる?」
潤んだ瞳と熱い吐息は、男にはこわくてき蠱惑的に感じられたはずである。しかし、それに対し、男は、"いや、お前を拉致し、どこかに連れ去りたい"といったのである。
「拉致するって…どうするの?」
由紀は、男のスラックスのジッパーを下ろし、股間をまさぐりながら、かすれた声で訊ねた。
「当身だ」
と、男は応えた。男は、自分の左の座席にすわっている由紀の腹に、自分の右拳を添えた。"ああん"と、由紀は、軽くのけぞった。
「ここが鳩尾だ。空手の有段者のおれがここを拳で突けば、かよわな女のお前は、簡単に気絶する。そうしておいて、拉致するのだ。その技を当身というのだ」
そのときは、自分を占有したい、という男の情熱的な想いに感動し、"あなたがそうしたいのなら、拉致してもいいのよ"とささやいた由紀であった。
しかし、それが今日、ほんとうに自分の身におきた。しかも、このドラマや別れた男の言葉通り、実際に一撃で人一人を気絶させることができることを体験してしまったのだ。午後の仕事に忙殺され、忘れていた衝撃が、いきなり津波のように襲ってきた。
<誰かが、わたしのことを狙っているのかしら…>
そう思ったとき、彼女は感電したように立ち上がっていた。たわわな両の乳房が大きく上下し、パジャマを揺らした。
別れた男! そうだ、彼だ。彼は、空手の有段者であり、当身についても詳しいはずであった。その男が、別れた今も自分に未練をもち、ストーカーとなって尾行しているとしたら…!
反射的に警察に電話しようと子機をつかんだ、その手が止まった。彼女は、自分が会社のなかで決して低くない地位にいることを思い出したのである。
ここで警察沙汰をおこせば、自分の未来はどうなるのだろうか。彼女には、自分に反意を抱く同僚が身近にいた。そういう連中に、ゴシップのたねを提供するようなことは、断じてしたくなかった。
「わたし、負けないわ」
声にだしてそう言うと、勇気がわいてきた。自分は、職場の華などではない。実力でもっと高いステータスを手にいれられる能力をもっているはずなのだ。
落ち着いて 考えてみれば、前の男がストーカーだ、と決まったわけではない。いまは、事態を静観すべきだ、という豪胆な気持ちがうまれた。感情に流される他の女と自分は、一線を画した関係でなければならない、という彼女の信念が、そうさせたのである。
<つぎは、あんな隙はみせないわ…>
左手で、よく引き締まった腹部を触りながら、由紀は、そう決意するのだった。

同日AM7:01
由紀・サワイ・ヤンソンは、椅子を元どおりにすると、鏡台の前に立った。薄いグレーのシングル・スーツ。スーツの中は、燃えるようなクリムゾンのノースリーヴ・タートルネックに銀色の花のブローチをつけている。
立位では、由紀の乳房は、釣鐘型を維持しているが、ブラジャーによる矯正をうけてお椀型となり、胸の中央からかなり広い範囲にかけて、その豊満な質量がうみだすなだらかなラインがつづいている。
贅肉のない腹などは、大きく隆起したバストによって蛍光燈の光が遮られ、完全に影になってしまっている。
今日は、早朝会議であるため、化粧は抑え目にしてある。女を武器にしない由紀らしい配慮であるが、軽い春物ののルージュを引いているだけで、彼女の知的な顔立ちがもつ魅力は数倍に増幅されるようであった。
すでに戸締まりは終えている。"がんばろう"と、鏡のなかの自分にナチュラルな微笑みを投げかけると、由紀は、ハンドバックを肩にかけ、玄関にでた。
踵のひくい落ちついた色の靴をはき、表にでた。鍵をとりだすと、玄関に向かい、鍵穴に鍵をさしこんだ。
そのとき、ぽん、と背中をたたかれた由紀は、お隣が回覧版をもってきたのだ、と思い、きびすを返した。
逆光のなかに、長身の男のシルエットをみた、と思ったが、それが、たしかであるかを確認することもできなかった。眼前に出現した人物が、体ごとぶつかってきた、と思った直後、由紀は、"どむっ!"という重い音をたてて、スーツの腹に深々と突き込まれた黒い拳を見つめていた。黒い手袋をはめた拳であることが、他人事のように、冷静に理解できた。
<き効…くう…>
自分の口から、"うっ…!"という無様な声がまろびでるより早く、当身による神経遮断作用が全身に拡散していく様子に、由紀は、軽い感銘を覚えていた。当身が卑劣な技であることは間違いないが、その洗練されたテクニックは、彼女の女の部分をかすかに痺れさせた。
が、プライドの高い由紀の理性は、ここで負けてはいけない、と叫び、ありったけの力を腹にこめようとした。
正確には、そう思う前に、由紀は気絶していた。男は、ふわりと浮くようなたおやかさで倒れ込む由紀を抱きしめ、素早くドアから鍵をぬくと、玄関を開け、由紀ごとなかに連れ込んで後ろ手に閉めた。
玄関マットの上に、靴をはいたままの由紀の美しい上半身を、しどけなく横たえる。鍵を右手ににぎらせた。
男は、ドアの覗き孔から外部を見回し、人がいないことを確認すると、あざやかな挙動で女の家をあとにした。
「あ…ああん…」
という甘ったるい声が、自分のものであることを知って、由紀は跳ね起きた。左手の長い指で腹を撫でる。あいかわらず痛みはないが、昨日と同じく、自分が当身でやられたのだ、という確信はあった。はっとなって、時計をみた。由紀の相貌から、血の気が失せた。
<遅刻だわ…>
自分が招集した会議である。これまで会議への部下の遅刻を怠慢である、と厳しく叱責しつづけてきた自分が、遅刻するなど、規律ただしい彼女にとって想像するだけで、全身の血液が逆流しそうになるほどの屈辱であった。自分は常に正しく、もっとも優秀でなけれればいけない、と自分に言い聞かせてきた由紀である。
玄関の外に、まだあの人物が待ち伏せしていて、ドアを開けた瞬間に拳を入れられるかもしれない、と思ったが、もうそんなことはかまってはいられなかった。
由紀は、部屋を飛び出すと、施錠する手ももどかしく、階段を駆け降りていった。

同日AM11:37
企画部企画第2課女性戦略開発室室長というのが、由紀の正式な肩書きである。わずか29歳で管理職に抜擢された人事は、彼女がつとめる本社でも男女をとわず他に類をみない。アパレル産業とはいえ、女性が総合職で採用され、頭角をあらわしていける確率は、異業種同様、それほど高くはない。その中にあって、由紀の経歴はたしかに光り輝いていた。
女性服を女性のアイディアによってクリエイトする、というコンセプトのもと、誕生した女性戦略開発室は、現在、由紀を含め15人の室員をかかえている。むろん、全員が女性である。女性は、同性に厳しいというが、今日の早朝会議に5分ほど遅刻した由紀に、彼女たちの声は冷ややかだった。
そのなかでも、とくに自分よりも年少の由紀に先を越されたたがわさなえ田河早苗のそれは、陰湿だった。
「室長が5分遅くいらしたってことは、あたしたち無能な部下が許してもらえる範囲はどれくらいかしらね。5秒? 0.5秒?」
じつは、由紀は、室員たちの反感の的であった。彼女以外、ほとんどの部下が、会社を結婚までの腰掛けと考えていた。そういう彼女たちには、がつがつ働く由紀を嫌悪感というフィルターをとおしてしか見ることができなかった。彼女たちには、戦略の立案などという得体のしれない仕事より、アフターファイヴの合コンのほうがよほど重要であった。逆に、"与えられた仕事をやって給料をもらおうと思っていたのに、自分で仕事を作り出せなんて話がちがう"、と怒り出し、配置換えを願い出る始末なのだ。
早苗は、そんな室員たちの意見の代弁者として、室内に地歩を確立しており、反・由紀勢力の急先鋒になっていたのだった。
その日の会議を、とにかく切り抜けた由紀は、会社の廊下を歩きながら考えを巡らせているうちに、ある発想にたどりつき、その長いストライドを停めた。
スーツを自席にかけてきたため、今は、赤いノースリーヴ・タートルネックのみの装いである。肩からむきだした白い二の腕が、適度なふくよかさをもって手首への長く美しいスロープを形成している。スーツによる上からの圧迫を失ったことで、内側からもりあがる98センチの乳房の大きさが、タートルネックをとおして輪郭や谷間にいたるまではっきりと見える。
自分を狙っている人物は、ひょっとしたら前の男ではないという可能性もある。田河早苗、あの女が誰かに依頼して自分に嫌がらせをしているのではないか。
<早苗さんなら、それくらいやりかねないわね…>
開放的なビルの窓から、春めいた陽光がふりそそぐ下界を見下ろしながら、由紀は、自分の考えを否定できない自分に、うんざりしていた。
早苗は、たとえ自分を追い出したとしても、その後がまに坐れないことを知悉している。だからこそ、後顧の憂いなく、自分に危害が加えられるのだ、と由紀は考えていた。
トイレに向かう歩みを再開させると、由紀は、自分を二度、当て落とした人物のことを、もう一度、思い起こそうとしていた。当身という技は、その性質上、どうしても犯人の顔と正対することになる。自分はかならず相手の顔を見ているはずなのだ。
だが、どうしても思い出せない。それほど、男の出現から自分の気絶までの時間が短いのだ。おそらく、すべての作業が、1秒にみたない極小のタイムスケールのなかで終始しているのであろう。
<プロの仕業だわ…>
そう思いながら、女子トイレのドアをあける。先客はいないようだった。そういえば、別れた男があやつる空手が、どの程度のものなのかを知らなかったことに、いまさらのように気づいた。
彼は、プロだったのだろうか…。そんなことを考えて、用を足すべく、個室にはいろうとした時だった。
いきなり、右肩をつかんで、反転させられた。
「きゃ…!」
少女のような声音が口からとびだし、反射的に両肩と首がすくんだ。しかし、連日、危険な目にあいつづけているためか、由紀のなかで恐怖に対する耐性のようなものが出来始めていた。首をすくめていても、両目は開いていた。目を開けて、しっかりと敵の正体を網膜に焼きつけるのだ、という意志がわきあがってきた。
だが、振り向いた先に、人がいなかった。彼女のいう"敵"は、由紀を振り向かせるのと同時に、さらに半歩をふみだし、左腕の力で女の腰を抱き寄せていたのだ。
二人は、瞬間、抱き合うかたちになった。由紀の顔は、敵の顔の真横にある。自分の大きな右胸が、男の胸板でやわらかく潰れていく感触があった。
<今だわ…>
そう思った瞬間、男の右拳が至近からの直撃を、由紀の腹に打ち込んでいた。上腕の力のみによる当身であったが、その膂力は破壊的であった。鳩尾を突き上げた拳の振動波は、腹腔から胸郭に伝達され、内側から重量級の二つの巨乳に弾性を与えたのである。
「うふうっ!」
これまででもっとも激しいパンチであった。ブレーカーが落ちるようなあっけなさで、世界が暗転した。助けをもとめる声も、無意味にかすれた呼気に変換されてしまう。
女は、またしても何も記憶にとどめることができないまま、軽い気絶にいざなわれたのだった。
男は、自分の胸のなかで、由紀の形のよい眉がひらくのと同速度で目が閉じられる様子を確認した。由紀の腹の深みに当て込まれた拳を引き抜き、そのまま大きな尻を抱き上げ、個室の洋式便器の脇にすわらせた。
由紀は、長い足をくの字に折り、個室の壁に頭をもたれて、気を失っている。
男は、誰にも気づかれることなく、女子トイレを去った。

同日PM7:45
電車がホームに滑り込んできた。すでに満員であることは、誰の目にもあきらかであった。由紀は、その光景をみて、世間では、この時間が帰宅ラッシュにあたるのだ、ということに気づいた。常に深夜でなければ、乗ることのない電車は、空席だらけなのだ。
やらなければならない仕事は、山積していた。しかし、部長直々に、"帰れ"と言われれば、その命にしたがうしかなかった。
当て技をくらって昏倒した由紀は、後からトイレに入ってきた同僚によって発見された。同僚は、何度、体を揺さ振ってもおきないことから、最悪の事態を予想したらしかった。
息を吹き返した場所は、会社の医務室のベッドの上であった。男子社員におぶさわれて運ばれたのである。もう自分の噂は、社内全体に知れ渡っているはずだ、と思うと、全身が灼熱化するのを止めることができなかった。
「過労だろう。君のタイムカードを調べたが、こんな勤務のしかたをしていたら、すぐに体が参ってしまう。若いからといって、体を酷使しすぎては、回復力そのものが萎えてしまうぞ」
と、医師は、ありきたりの診察を与えた。それから嫌がる由紀は、2本の点滴をされて、帰宅を命じられたのである。
企画部長であるさわもとこういち沢本幸一は、由紀の数少ない理解者の一人であった。彼女を今のポストに抜擢したのも彼であった。沢本は、優しい人物であった。ベッドサイドに現れるなり、あわてた様子で由紀に謝るのだ。
「本当にすまなかった。というより、おれは、君に甘えていた。ひどい話だが、君が倒れたと聞いたとき、君も人間だった、と気づいたんだ。仕事を的確にこなす機械じゃなかった。恋愛もしたい、趣味も大事にしたい。そういう妙齢の女性であることを、おれはすっかり忘れていた」
そう言われて、由紀は、不覚にも涙を流した。何者かにつけ狙われていて、当身という技で幾度も気絶させられているのだ、などと言えば、自分だけでなく、この沢本の立場も悪くすることになる。人事考課は、該当者をその部署に動かした側にも適用されるのである。
由紀を飲み込んだ満員電車が動き出した。吊革や保護棒には遠かったが、ドアのすぐ脇の窪みに体をよせることができたため、周囲をかこむ人の密度も手伝って、車両の揺動にふりまわされる心配はなかった。
女性戦略開発室は、由紀を室長に迎えてから、一定の実績をあげていた。新規商品の開発だけでなく、インターネットを利用した新しい販路も開拓された。しかし、室というレベルで省みたとき、開発コストのほうが高くついていることが気がかりであった。それは、役員会の席上でも数回にわたって取り上げられており、そのたびに沢本のフォローで事無きを得ている、という状況であった。
ドアの窓から、闇のなかに浮かぶ光点をかぞえながら、由紀は、自分の手腕の限界がどこにあるのか、をぼうっと考えていた。せめて、自分ぐらいがんばってくれる部下が一人でもいてくれたら、と思う気持ちと部下を使いこなせないのは、自分の管理能力が欠落しているせいだ、という気持ちのせめぎあいがしばらくつづいた。
電車は、大きな渡河橋にさしかかった。車両がかなり揺れ始めた。左右の振動が加わり、複数の人間の体重が一定のリズムでのしかかってくる。
やめてよ、と思った瞬間、がたんと車体が大きく揺れた。由紀は、座席と壁に体の二点を固定されているので、傾斜にひきずられることはなかった。
が、反動で覆い被さってくる人波のなかから伸びた傘の丸い柄が、由紀の鳩尾をしたたかに突いていた。"ずんっ!"という鈍い音も、電車のかなでる騒擾にかき消される。電車の振動さえも利用した、凄腕のプロの技であった。
<うむっ・・・!>
 まさに一瞬のできごとであった。警戒心を完全に解いていた由紀は、腹への一撃をうけ、自分が何をされたのかもわからないまま、壁にもたれて気絶した。気絶した彼女の体は、次の瞬間に押し寄せてきた人波によって、ふたたび壁に強く押し付けられ、崩れ落ちることもなかった。傍目には、立ったまま寝ているか、単に目をつぶっているだけ、という印象でしかない。
 電車がホームに滑り込んでいく。由紀が、下車するはずの駅であった。ドアが開いた。人ごみに押されて、由紀の体がずり落ちる。人々は、そこではじめて、由紀の異常に気づいた。
 悲鳴があがった。

 同日PM11:13
 男は、リモートコントロールされている高感度CCDモニターが電送してくる映像に視線を集中していた。画面左に、椅子にすわった女の姿があり、その右側には、起動中のコンピュータのディスプレイ画面が映し出されている。女は、赤いスウェットの上下を着た由紀である。
 男が、人気のないビルの谷間で由紀を襲ったことには理由があった。彼女の部屋の鍵で合鍵を作るためであった。男は、作った合鍵を使い、その日のうちに主人不在の部屋に侵入し、あらゆる場所に巧妙に盗聴、盗撮機材をセットしていた。以来、男がいずれも自宅の外で由紀を気絶させているのは、自分が鍵をもっていることを悟らせないためのカモフラージュであった。それを知れば、家捜しをされてしまい、家全体に仕掛けられている機材が発覚するおそれがあった。
 満員電車のなかで長い傘の柄をつかって、由紀を当て落とす。いわゆる遠当てという離れ業をやってのけた男は、気絶した由紀の体が数人がかりで駅の事務室に運ばれていく様子をみながら、彼女の会社に連絡をいれた。
"自分は、彼女を助けた者だ。社員章に電話番号が書かれてあったので、それでそちらの電話番号を知った。由紀・サワイ・ヤンソンが電車内で倒れ、今、駅の事務室で介抱されている"というものであった。
 駅の事務室で気絶から醒めた由紀が、逃げ帰るように自宅にたどりつくと、留守番電話に、直属の課長からのメッセージがはいっていた。"病院にいき、精密検査を受けること。原因を明らかにし、完全に治療が終了するまで出社してはならない"という内容であった。
 由紀は、追い詰められていた。それが、CCDカメラの画面からよく伝わってくる。由紀は、以前、交際していた男に連絡をいれ、その男が今、北海道に勤務していることを知った。北海道であれば、時々、上京してストーカー行為をすることは可能なのではないか、という推理が、彼女を困惑させている。病院にいっても、被害妄想として精神安定剤が2、3日分処方されるだけであることがよくわかっている。かといって、警察に連絡すれば、会社をまきこむことは必至である。なぜならば、犯行現場の一つは、社内トイレなのである。会社のセキュリティ上の問題が問われることは、火を見るより明らかであった。
 このままでは、辞職するしかない。−女の少し青ざめた横顔には、わらにもすがりたいという想いが湧出していた。男は、由紀がすべて自分の計略どおりに歩まされていることに満足していた。しかし、男の口元にうかんだかすかな自信は、突然、凍りついた。
 由紀がネット上をさまよいながら、あるホームページにたどりついたことを、男は知った。
<エテルナ・・・!>
 由紀がさっきから食い入るように見つめている画面であった。
 それは、インクナス・ジャパンに所属する者であれば、知らぬ者のない忌まわしい名であった。
 エテルナは、とくに女性を対象とした非営利のボディガード組織である。その実態は不透明で、インクナスの情報網を駆使しても、そのほとんどがいまだ闇のなかであった。非営利だから、金の授受から足がつくことがない。メールやホームページのアドレスも頻々と変化するのでトレースしようもない。ガード依頼の登録も簡単で、インターネットであればホームページに「自分の氏名、年齢、電話番号、住所、よく行く場所」だけを入力すれば、あとはエテルナが勝手に登録者をリサーチし、ガード対象者としての適正性を審査する。合格すれば、登録者は、自分がどのようにガードされているかさえわからないままガードされ、「ストーカー撃退」などの原因の解決まで、いつのまにか行われ、ガード対象者が気づかないうちにすべてが完了している、というわけである。
エテルナがインクナスに敵対する組織として存在していることは、明白だった。男も、エテルナがどのようにしてターゲットをガードしているのか、について詳細な情報をもっていない。それほど、エテルナは、秘匿性の高い組織なのであった。
由紀がここに助けを求めるとなれば、男とエテルナとの対決は不可避となる。これまで他のエージェントが苦戦を強いられたエテルナを相手に、自分がどこまで戦えるのか。
男の携帯が鳴った。依頼者の声であった。
"いつになったら、依頼内容が遂行されるのか。前にも言ったとおり、こちらとF社とのトップ会談は来週に迫っている。…"
男は、CCDモニター画面のなかで、意を決した由紀がキーボードを叩き始めた様子を見ながら、自分が練り上げた計画を、根本的に転換せざるをえなくなったことを知った。

4月23日AM10:49
エージェント"レオ"は、いったん任務に入ると、インクナスの諜報機関でさえ、その追尾がむすかしくなる、と言われていた。それは、彼が何者も信じない徹底した孤高主義の狩人だからであった。彼にとって拉致は、単なる結果でしかない。そこに至る過程を緻密に構築し、一つの無理も飛躍もない簡略化された論理展開でくみあげていく作業は、膨大をきわめるが、彼は、その工程を他のエージェントに委任したことはない。彼は、アルチザン芸術家だ、といわれることがあった。人一人を、完全にこの世から抹消させる、という悪魔さながらの才知にたけた彼は、まさに卓抜した芸術家であり、イリュージョニスト魔術師でさえあるのかもしれなかった。
その彼が、ついに禁を破った。それどころか、彼は、インクナスが全世界に張り巡らせたあらゆるネットワークに積極的に介入し、エテルナに関する情報を貪欲に収集しつづけていた。
タイムアウトまで、あと2日。しかし、床一面にばらまかれた書類の海のなかで、彼は今、まさに溺死しようとしていた。
由紀がエテルナに登録してから、5日間、彼は、彼女に対するいっさいのアプローチをとれなくなっていた。エテルナの関与を知っていながら、闇雲につっこんでいって消息を絶ったエージェントが何人もいる。その轍を踏むことは避けなければならなかった。
突然、気絶させられる恐怖が薄らいでいることを感じてか、由紀は、2日前から職場復帰を果たしている。逆に追い込まれたのは、彼の方であった。
問題は、"なぜ、こちらからは見えないエテルナのエージェントが、こちらを見破ることができるのか"であった。エテルナの前に敗北したエージェントたちは、すべてエテルナのエージェントと気づかずにやられているのである。その秘密を暴くために、彼は、由紀のあらゆる行動パターンを調べあげ、彼女を中心においた膨大な数の写真を撮影した。だが、そこに写っている人間に、何らの共通点もなく、エテルナのエージェントの手がかりさえつかめなかった。たとえ、由紀に発信機を取り付け、写真のフレーム外からモニターしていたとしても、ターゲットが拉致されてしまえば、彼らの負けなのである。そんな稚拙な手段を、彼らがとるとも思えなかった。
彼は、壁にもたれて大きくため息をついた。彼は、諜報機関のエリート・エージェントである"ルカ"が、何気なくいった言葉を、疲れきった頭で反芻していた。
「そういえば…エージェント"ロビン"が失踪する前に残したメッセージがあったのよ。"エテルナのガード・システムは、2nだ"って」
 彼は、口元に力のない笑みを浮かべた。敗勢を感じさせる笑みであった。2nだと? エテルナのボディガード体制は、数学によって律せられている、とでもいうのか。であれば、nとは何なのだ。nが正の整数だとすれば、そこにあてはまる数字は、1か2か3か・・・。
 そのときだった。彼の両眼がみひらかれた。啓示が電撃のように彼の全身をつらぬき、彼は、理解の岸辺にたどりついたことを確信した。
「そうか・・・そうだったのか」男の双眸が光をたたえはじめ、不吉にきらめいた。「道理で何百枚、写真を撮ってもわからなかったはずだ」
 彼は、すぐにコンピュータに直結している電話機をとり、衛星回線にアクセスした。インクナスのトップ・エージェントしか使用できない通信回線である。ワンコールでメッセージ・センターにつながり、電子音声が、"メッセージをどうぞ"、といった。
「獅子の谷より活火山にいたる道を知りたい」
と、男はいった。それは、暗号であると同時に、インクナスの音声認識システムにもつながっている。もし、男のイントネーションが男のものと異なれば、その瞬間に回線は自動的に切断されるはずである。複数のファイアー・ウォールを通過する際の発信音が30秒ほどつづいた。
「こちら"ヴァルカン"、ひさしぶりだな、"レオ"」
 アクセスは無事終了し、相手が電話口に出た。自らを"ヴァルカン"と名乗ったエージェントは、快活だが油断のない声音で、そう挨拶した。
「噂は聞いてるぜ。孤高の獅子が狩りの最中に、珍しく豹や虎に助勢を求めてるってな。いったい、どうしたんだ」
「ターゲットがエテルナと接触した。お前の助けが必要になったのだ、"ヴァルカン"」
 エテルナという単語に、ヴァルカンは一瞬の沈黙を強いられた。電話機の向こうで、生唾をのみこむ音が聞こえた。
「お・・・おれが力を貸すことで、エテルナの鼻をあかせられるんだな」
「ああ・・・そういうことだ」
 功名心をかきたてられた"ヴァルカン"に、"レオ"はそう応じた。
「よし・・・で、おれは、何をすればいい」吹っ切ったように、"ヴァルカン"が威勢のいい声をあげた。「大気圏に落下してくるR国の有人宇宙ステーションを、どんぴしゃのタイミングで国会議事堂にぶつけてくれ、というんならお安いご用だぜ」
 男は、なかば本気の"ヴァルカン"に軽く失笑すると、"もう少し簡単な仕事だ"、と言った。
「そう簡単なことなんだ」と、男は言った。「簡単な爆発を起こし、不測の事態をつくりだしてくれればいいのだ。不測の事態を、な・・・」

 同日PM10:43
 由紀がいきつけの喫茶店を出ると、自宅があるマンションまでをつなぐ大通りには、まだ賑わいの余韻がのこっていた。
 明るいベージュのスリーボタン・スーツに同色のパンツ・ルック。黄色のスリーボタンは、大きな胸にはばまれて第1ボタンが留められず、2つめだけで留めている。鶯色のブラウスの襟と胸元を、配色として、スーツからだしている。活動的な女性らしいファッションであった。足の長い由紀が着ると、マニッシュな雰囲気がきわだつ。が、同時に、胸を大きくもりあげる98センチのバストやくびれたウエスト・ラインが成熟した女のかぐわしさをも醸し出し、あたかも両性具有のように神秘的な美しさが、そこにうまれている。
 2日前から、職場に復帰していた彼女に、今日、すばらしい出来事があった。彼女の企画した下着のデザインが社内の第一次プレゼンを突破したのだ。電車のなかで、当身をくわされ、気絶させられてから、今日で5日目。彼女に対する暴力は、なりをひそめている。エテルナというボディガード組織のおかげであった。エテルナがいつも自分の気づかないところで自分を守ってくれている、という強い安心感が、今の彼女の自信の源泉であった。
 がんばろう、と心から思った。自分を支えてくれる人がいる。その人のためにがんばろう、という気持ちになっていたのだった。
 その時だった。道路の反対側で、なにかが爆発した。火柱があがり、街路樹が跡形もなく吹き飛ばされた。
<え・・・>
 思わず硬直した由紀の正面に駐車していた車が、大きな火球に変換される。鼓膜をつんざかんばかりの轟音とともに、地面がはじけ、ガードレールが鉄屑と化して四方に飛散する。
 赤い閃光が後方から迸り、彼女の五体を染め上げた。衝撃波が飛来し、由紀の体は、宙に浮き、1メートルほど先に飛ばされた。コンクリートの舗道に倒れた彼女の瞳のなかで、たった今でてきたばかりの喫茶店が、紅蓮の光と炎で埋め尽くされていた。店の前に停まっていた車が爆発した、その爆圧で、喫茶店が巻き添えをくうかたちで粉砕されてしまったのである。
 周囲の上空に凄まじい黒煙が分厚く層をなして拡がりつつあった。あと数秒もここに立ち止まっていたら、方向感覚そのものが麻痺する不安があった。それが彼女のパニック心理に火をつけた。
「い・・・」由紀は、よろよろと立ち上がると、三方向から自分を包み込むように炎上をつづける街にむけて、激越の声を解き放った。「いやああ・・・!!」
 彼女は、全力で走り出した。爆発は、彼女の前と後ろ、それに左横で起きたのだ。彼女が逃げられる場所は、右横にのびる市道しかなかった。
 後方では、誘爆の大音響と、大気を灼く赤い光が間断なく発せられ、逃げる彼女の背中に襲い掛かってくる。由紀は、豊かなバストがちぎれんばかりに揺れ惑うことにもかまわず、必死に駆けた。
 2分ほど走ったところで、後ろが静かになった。目の前に十字路があった。右側に折れたところで止まり、一息つこうと思った。
 角を右折する。その瞬間、由紀は、前から歩いてきた男性にぶつかった。全力で走っていたため、避けようがなかったのだ。
<きゃ・・・>
と、声をあげたはずであったが、それは、別の音となって口からとびだしてきた。
 そこで待ちかまえていた男がためらいのない右拳の二連撃を、由紀の鳩尾に叩き込んだからである。男にとっても、女はブラインドからとびだしてきたはずであったが、あたかも後方からのパスをノートラップでシュートにもっていくストライカーのように、彼の天才的なひらめきは、右上腕と左足の連動に完璧なタイミングをあたえていた。
「う・・・っ!」
 男の放った二発の当身は、女のベージュの服の第2ボタンを中心にして突き込まれ、不意を突かれた由紀の腹は、大きく陥凹した。走っていた由紀は、瞬時に気絶しており、脱力したその体は、慣性を維持しながら、男の胸にぶつかった。
 女の鳩尾には、男の強烈な拳から放たれるベクトルのほかに、走ることによってえられた加速もくわわっていた。ただでさえ、一撃で数時間は女を目の醒めない状態におくことができる男のパンチは、女の走力がくわわることによって相乗作用を獲得し、さらに大きなエネルギーとなって激突、女の腹の奥部にある神経網を破壊したのである。
 ゴムでできた人形さながらの柔らかさで崩れ落ちる女の上体を折り、すばやく肩に担ぎ上げる。すぐそばに停めておいた車の助手席に、力なく気絶した女の体を乗せる。自分は、運転席にすべりこみ、車を発進させた。
 時を同じくして、その様子を遥か上空−高度6,000キロの軌道から監視している"目"があった。ミラーボールに似た形状をもつ直径60センチのその人工物体は、一般には測地衛星と呼ばれていた。が、冷戦時代には、軍事用偵察衛星として利用されたように、誤差1メートルという精度をほこる電子の眼が、今も爆発し、炎上する街と、そこから走り去っていく車を的確に追尾していた。
 都内某所の地下に設置されたインクナス・ジャパンの本部、そのメイン・オペレーション・エリア中央にしつらえられた巨大スクリーンに投影された映像のなかで、一人の女性が、上空をおおう爆煙のなかから現れ、由紀が走っていった方向に駆けていく。
「あの女にズーム」
"ルカ"の声が響き、オペレーターがマニピュレータ・スティックを操作する。俯瞰ショットが酔いそうなほどの高速でズーム・インし、画面いっぱいに女の姿が拡大されて、映し出された。
「女子高生・・・?!」
 炎がもたらす赤外線の干渉をうけるため、さすがに粒子荒れが激しいものの、ブレザーにミニスカート、リボンタイにロングソックスといういでたちは、間違いなく女子高生のスタイルであった。変装かもしれないが、この女は、エテルナの地下茎につながる重大な鍵であった。見失うわけにはいかなかった。
「いい? あの女をロストしたら、容赦なく殺す。嘘じゃないわよ!」
 オペレーション・ルームに"ルカ"の秋霜な檄がとんだ。
「"2n"の方はどう? 動きはある?」
"ルカ"が別のブースに座る数人のオペレーターに質問をあびせる。それと同時に、スクリーンの左半分がワイプされ、由紀の自宅マンション、会社そして炎上する喫茶店付近が映る。
<n=3・・・か。ま、そのうち、喫茶店は、もう駄目ね>
 スクリーンを見据える"ルカ"の鋭い眼光が、いっそう冷たさを増した。
 由紀は、典型的な仕事人間であり、その行動パターンは、画一的であった。朝、自宅のあるマンションを出、職場にいき、帰りには自宅近くの喫茶店に立ち寄り、マンションに戻る。それの反復である。
 したがって、エテルナは、まずこの3つのポイントに、それぞれ3人のマーカーを配置し、つづいてそれら3点をつなぐルートに一人ずつ別のマーカーを配置したうえで、これらのメンバーを決して固定せず、ランダムに変化させることで、インクナスの監視をすり抜けていたのである。つまり、これが、由紀の行動ポイント数をnとした場合に必要なマーカー人数を算出するための「2n=6の法則」だったわけである。
それに引き換え、インクナスは、多くの場合、一人のエージェントが一人のターゲットを担当するため、目立ちやすい。それが、これまでエテルナに先手をうたれる原因となっていたのである。
 だが、"ヴァルカン"によって爆破された惨状は凄まじく、喫茶店に残っていたはずのエテルナのエージェントは、即死であったろうと思われた。スクリーンに現れた女子高生は、おそらく喫茶店−自宅間をガードするため配置されたエージェントであったはずである。彼女は、"レオ"の術策にはまり、喫茶店が爆発したとき、仲間の救出にむかってしまい、由紀へのマークをはずしてしまったのである。
 その間隙を見逃す"レオ"ではない。エテルナは、"レオ"によって惹き起こされた不測の事態に動転し、フォーメーションを崩したのである。
<さあ、見てなさい、エテルナ・・・>
"ルカ"は、スクリーンをねめつけながら、高鳴る興奮を抑えつけようと、必死になっていた。
<インクナス・ジャパンには、最強のエージェント"レオ"がいることを思い知らせてあげるわ。ひとたび、鋼の獅子に狙われた獲物は、その牙の餌食になるしかないのよ>
 由紀の追跡を断念し、マンション方面に動き始めた女を見つめる"ルカ"の手のなかで、コーヒーをいれた紙コップがぐしゃりと潰れた。

 4月24日AM1:03
 無数の悪夢が自分をまたぎ越していったような、不透明な記憶があった。灼熱の光と炎が、まだ近くで爆ぜているような恐怖に衝き動かされて、由紀は、目をあけ、うつろな視線で空間をなぞった。
 うちっぱなしの壁で四囲をかこまれた部屋のなかに、一つおかれた白いベッド、そのうえに自分は寝かされていた。
 曲がり角をまがったところで、腹に当身をぶちこまれ、ここに運びこまれたのだ、とわかった。いや、それを知ったのは、もう何年も前のことのような気がした。
 自分は、幾度となく、このベッドのうえで覚醒しては、失神するという繰り返しを無限回にわたってさせつづけられてきたような感覚が、頭の芯にこびりついていた。
 体が異常に重かった。発熱しているような感じもあった。目はあいており、灰色の壁をみているのに、それを見ているのは自分ではないような、得体のしれない不確かさが、自分の精神と肉体を支配していた。
 実は、由紀は、この部屋に運び込まれてから、自白剤を注射され、インクナスから派遣されたトップレベルの催眠術師の精神コントロールによって、自分の意志とは異なる思考パターンを移植させられているのである。しかし、由紀は、一回20分の精神移植が終わるたびに、男によって腹に軽い当身を入れられて気絶するため、それ以前の記憶が定着しない。したがって、彼女の意識は、いつもベッドのうえで始まり、当身を受けたあとの記憶は、永遠に脱落したままになっているのだ。
 だが、それも終わりをつげようとしていた。男は、最終試験を行うことを決めた。
 ドアをあけて、部屋に入った男をみた由紀は、歓喜の表情をうかべて、ベッドをとびおり、男の胸に抱きついた。
「・・・会いたかったわ・・・」
 由紀は、思考移植の一環として、眼前の男を恋人として認識させられている。女は、豊満なバストを恥じらいもなく男の胸に押し付け、両手を男の背中にまわして、しっかりと抱きしめた。
「ああ・・・わたしを・・・抱いて・・・」
 女は、この男に抱かれ、犯されることを昼夜をとわず請い願っている。美しい唾液で口唇を妖しく濡らしながら、女は、陶酔の表情で喘ぎ、目をとじていく。
「由紀・サワイ・ヤンソン、お前は、セックス奴隷だ」
 男が言った。それが、女に催眠がかかり、トランス半覚醒状態に陥らされるキーワードだった。
 スイッチが切り替わったように、女の顔から表情が消失した。男の背中をきつく締め上げていた両腕も力を失い、女は、直立したままの姿となった。顔を動かすあらゆる筋肉が弛緩し、光をうしなった両眼は、ただ呆然と空間をみているだけである。
「まず、お前のスリーサイズを聞こう」
 男の声が、薄暗い部屋に反響した。
「バスト98センチ、ウエスト59センチ、ヒップ103センチです」
 機械によってつくりだされたような抑揚の消えた声が、女の喉から発せられた。
「お前の体のなかで、いちばん好きな場所はどこだ」
「胸です」
「その理由は?」
「巨乳だからです」
 女は、瞬きすらせず、虚空の一点をみつめたまま、そう答えた。
「脱げ」
 男は命じた。このコマンドは、これまでのトレーニングで試していない。これが成功することが、男による精神支配完成の絶対条件であった。
 由紀は、「はい」と素直に応じると、まず、ローヒールを脱ぎ、裸足になった。ベージュのスーツの第2ボタンをはずし、ゆっくりとした動作でスーツをぬぎ、その場においた。スーツによる圧迫を失った女の双乳が鶯色のブラウスの胸部から大きく隆起する。女は、同じくベージュのパンツをぬぐ。ブラウスの下から伸びる、長く白い足がむきだしになった。
 女は、ためらうことなくブラウスのボタンをはずし、脱ぎ捨てた。首筋から突然、もりあがる迫力の白いバストをつつむ水色のレースのはいったGカップ・ブラジャー、そのくっきりと見える谷間が体の前面に深々とした亀裂を形作っている。きれいな最後肋骨がそこから左右にひろがり、少し赤みの残る鳩尾のなだらかなくぼみが、その下にあった。
 ブラの下ヒモ付近から、ボディラインは、みごとにくびれていき、贅肉のない腰から豊麗な尻へとつづいていく。形よく後方にせりだす尻もまた、水色のレース柄のショーツでおおわれている。
 前からみると、ショーツのデルタ地帯、すなわち太腿の付け根にうっすらと恥毛がみえている。女は、巨乳の型崩れをふせぐためのワイヤーブラの後ろに手を回した。ブラジャーのホックがはずれ、それを右肩からぬいていく。それまでは、たくましく張り出した球形の上部しかみえなかった乳房が、ブラジャーがとりはずされた瞬間、その釣鐘型の全容があらわになった。
 わりと大きな桃色の乳輪の中央にある乳首は、すでに硬く屹立している。ブラジャーによる抑制から解き放たれ、双つの乳房は、健康的な二の腕の肉にくいこむほどに左右にひろがった。が、その張りは、失われることなく、長い髪の陰が、弾力的な果実のせめぎあいによってできた、くっきりとした谷間に落ちている。これほどの薄暗がりのなかでも、バストに浮かぶ血管がみえるほど、女の肌は、白かった。
 女は、まったくためらうことなく、ショーツをぬぎすてた。薄い恥毛だけが恥じらいをたもって、秘唇を縦におおっている。
「ベッドに寝ろ」
 男が命令すると、由紀は、きびすを返し、ベッドに向かった。こうしてみると、女の豊かな椀型の尻が、とても高い位置にあることがわかる。外国人の血が混ざっているからこその肉体美であった。
 ベッドに仰臥する女の右脇に近づいた男は、右手を女の左の乳房に添え、ゆっくりと揉み始めた。男の手は、女の脇腹から皮膚をすべりつつ、その巨乳を下から揉みあげる。かすかなライティングが、女の体を褐色に変えており、それがいっそう欲情をそそる。
 男は、すでに愛液で恥毛を光らせはじめている女の膣奥に、左手の指をゆっくりと挿入していく。
「ああ・・・ん・・・」
 由紀は、淫らな吐息をはなった。指を静かに抜きながら、粘膜上部の襞の群れを撫で上げる。
「はう・・・いい・・・」
 女は、頬を上気させ、快楽の扉がひらきはじめていることを男に教える。
「お前には、好きな男はいるか」
 男は、そう言いながら、大きくあけられた女の口唇を舐るように貪る。舌で口腔内の性感帯を刺激してやると、由紀は、たまらず長い足をひらいた。
「あ、あなた様です・・・」
「おれにどうされたい」
「め・・・めちゃめちゃに・・・され・・・た・・・ああッ!」
 男の左指が、女の大陰唇をはげしく撫で回し、女の股間は、熱い淫液であふれかえった。
「おれの命令であれば、必ず服従するか」
「は・・・はあい・・・い」
 由紀は、たまらず、自分で右の巨乳を毟り取るようなはげしさで揉みはじめる。絶頂への急上昇がはじまった。
「あ、あなた様のためなら・・・由紀は何でも・・・でき・・・まあ・・・はうっ!!」
 由紀の上半身が弓なりにのけぞり、圧倒的な大きさのバストから鳩尾にいたるラインが、美しい円弧を描いた。が、それもつかの間、オルガスムスに達した女の体は、ぐったりとベッドに沈み込んだ。
"調教"は、完全であった。男は、堕落し、官能の坩堝にはまりこんだ由紀という名の雌犬に、最後の決定的なコマンドを覚えさせると、ティッシュで秘部の汚れを拭かせ、服を着させた。そして、一通の封筒を手渡し、ハンドバッグにしまわせた。
 男は、女を自分の正面に立たせた。
「お前は、これから当身で眠らされる。ここでの出来事を、お前は何一つ、覚えていない。お前は、明日の朝、とあるホテルの一室で目が醒める。そこに着替えを用意してあるから、それを着ていつもどおり会社に行け。いいな」
 男の命令に、女は、陶酔の余韻にひたったままの表情で、従順に"はい"と応じた。
「では、これから、お前を当て落とす。由紀、お前は、おれの当身が好きか」
「はい」
「なぜ、好きなのだ」
「あなた様の胸のなかで気絶できるからです。由紀は、意識を失った、この豊満な肉体が、あなた様のお好きなように弄ばれるのが好きなのです」
 男は、その回答に満足した。右腕が風を巻き起こしながら旋回し、女のベージュのスーツの腹部に右の拳が鋭く当てこまれた。
「はう・・・っ!」
 甘美な気絶が女を襲い、瞑目した女の首がぐにゃりと曲がった。支えを失った女の体は、ぐったりと倒れ、男の胸にしだれかかった。
<あとは明日次第・・・だな>
 男は、女の体を軽々と肩に担ぎ上げると、部屋を後にした。

 同日AM10:45
 由紀は、自分のデスクで仕事に忙殺されていた。この日の彼女は、すでに2つの会議をこなしている。あと1時間で、他のメーカーとの昼食会に提出する資料をつくり、出かけなければならない。戻ってきたら、今度は、得意先の接待のため、空港に迎えにいく、という過密なスケジュールが彼女を待ち受けている。
 昨夜のことは、ショックとして、彼女の心にわだかまっている。自分の周辺でおきた突然の惨事。8人が死亡、全13台の車両が炎につつまれ、45人が重軽傷を負い、現在も予断を許さない容態の人もいる、という。とくに、彼女が立ち寄った喫茶店では、従業員4人が即死であった、と聞く。あのマスターが、あのウエイトレスが、と思うと、胸が締め付けられそうであった。
 無差別テロだ、とマスコミは、報じていたが、犯行声明はいまだ出されていないとのことであった。
 そして、逃げながら、再び拳による当身をくらい、拉致された。それ以降の記憶は、すべてない。しかし、何か性的ないたずらをされたような痕跡が局部に残っていた。
<エテルナのガードは、どうしたのかしら・・・> 
 なにかトラブルがあったのだろうか、と思ったとき、デスクの電話が鳴った。受話器をとった。
「はい、女性戦略・・・」
「由紀・サワイ・ヤンソン・・・」突然、由紀は、自分のフルネームを呼ばれて、沈黙した。「お前はセックス奴隷だ」
 その声を合図に、由紀の顔からあらゆる表情が消えた。瞳は光を失い、ただのガラス球のようにオフィスの一点をみつめている。催眠状態に落ちたのである。
 電話の声は、さらにつづけた。
「ハンドバッグのなかの封筒を、部長の沢本に渡せ。こうメッセージをそえて、な・・・」
 女は、無気力な声で、時折、"はい"と頷き、やがて受話器をおいた。男の命令どおり、バッグから封筒を取り出し、生気のない所作で立ち上がると、部長のデスクに向かった。
 突然、目の前に立った由紀に、驚いたように沢本は、顔をあげた。その奇妙な様子に、多くの同僚が思わず仕事の手を止め、二人をみつめた。沢本の眼前に、由紀は、ぶっきらぼうな手つきで封筒をつきつけた。
「わたし、本日限りで退職させていただきます。理由は、こちらにしたためました。長い間、ありがとうございました」
 まったく抑揚のない声とともに、差し出された封筒の表には、辞職願と書かれてある。由紀自身の筆跡であった。
 とってつけたように頭を下げ、部屋を出て行こうとする由紀を、"待ちたまえ、サワイくん!"と呼びながら、沢本が追った。だが、由紀は、いちども振り向くことなく、階段を下り、一階のロビーから外に出て行ってしまった。
 会社の敷地をでていく由紀の後姿を追ってきた沢本は、なぜか、そこで口元に歪んだ笑みをこしらえた。
「あら・・・沢本さんじゃない」
「あ、ほんとだ。沢本さんだわ」
 突然、名前を呼ばれ、声の方向をみた。そのときには、すでに二人の女に両脇をはさまれていた。一人は、女子大生風であり、身長は、沢本と同じ165センチぐらいでウェーヴィーな髪、ベージュのキーホールネックTシャツに白いストレッチパンツ、黒いパーカーといういでたちである。Tシャツの胸の豊かなもりあがりかたからみて、バストは、86,7センチというところであった。もう一人は、ほどよい長さの栗色の髪に、女子高の制服らしいグリーンのチェックのダブル・スーツとベスト、それにスカートを身につけた清純な雰囲気の娘であった。背の高さは、160センチ程度で、胸も83センチあるかないか、といった小柄な女の子である。
「な、なにかね・・・?」
 二人の顔には、まったく見覚えがない。沢本が怪訝な表情で、そう言った瞬間だった。自分の右にいた"女子高生"が、"きゃあ、ひさしぶりです"と言いながら、甘えるような素振りで正対した。途端に、その右拳が、男の腹に叩き込まれたのである。拳が、腹にあたる刹那、"お休みなさい"、という少女のささやきを聞いたような気がした。
「う・・・」
 娘の拳は、瞬間、ネクタイごと、男のビジネスシャツの腹にめりこみ、不意を撃たれた沢本は、あっけなく気絶した。
「やあだ、沢本さんたら恥ずかしがっちゃって・・・」
 全身の力がぬけている男の体を、二人の女は、左右からりげなく抱え込み、近くに停めてあった車の後部座席に乗せた。その右側に"女子高生"がすわる。女子大生風の女は、運転席に乗り、車を発進させた。

 同日AM11:45
 沢本は、意識を取り戻した。鳩尾に重い痛みがのこっていることに、まず気づかされた。目をあけると、そこは、薄暗いどこかの廃工場のなかのようだった。
「気がついたかしら、沢本さん」
 左横から声がした。その方を向こうとして、はじめて、自分が壁にもたれかかっており、両手と両足が縛られていることを知った。
「あなたは、ひどい人ね。あたしたち、みんな知っているのよ」
 沢本が見上げると、そこには、さきほどの女たちが、立ったまま彼を見下ろしていた。ただし、その服装は、大きく変わっていた。ともに目も醒めるような純白のキャミソールにホットパンツ。長くむきだしになった見事な大腿部やふくらはぎの先には、白いエナメルのロングブーツが淡く妖しい光をたたえている。
 これが、彼女たちのユニフォームであることを、沢本は知った。
「あなたの会社は、来月、F社と電撃合併する。これは、社内でもごく一部にしか知らされていないトップシークレットよね」
 女子大生を装っていた女が長い両腕を胸の下で組みながら、そう切り出した。胸の大きさや丸さがキャミソール越しに、はっきりとわかる。
「F社との合併をなぜ、社内に知らせることができないのか? それは、あなたの会社にとっては、対等合併には程遠いものだからよね。F社がつきつけてきた条件は、多いわ。不要なセクションの廃止とかね。けど、その多くについては、やってのけられる自信が、あなたにはあった。なぜなら、それらの部署は、みな採算がとれないところばかりだったから、この合併を期に、なくしてしまうことの理由付けは簡単だからだわ」
 女子高生に扮していた娘が、長い小麦色の美脚を閃かせて、沢本に近づき、そう言った。その娘を、"ルカ"が見たら、それが昨日、爆発にまかれて由紀を見失った女子高生であることを知ったであろう。
「ところが、社内にたった一つだけ、廃止する理由がつけられないセクションがあった」"女子大生"は、しゃがみこむなり、沢本の顎をしゃくりあげた。「それが、由紀さんのいる女性戦略開発室だったのよ。ここは、そこそこの利益を会社にもたらしているだけに、なくすための名目がみつからない。けれど、F社は、強硬にそのセクションの廃止を求めてきた。F社の社長は、女だけの部署があることが生理的に許せない昔かたぎの人物よね。女性戦略開発室の廃止は、あなたがやらなけれならない絶対の仕事になった」
「そこで、あなたは、理解者のような顔で、由紀さんを励ます一方で、インクナスに接近し、由紀さんを辞職に追い込む計画をたてた。女性戦略開発室は、由紀さん一人でもっているセクション。彼女さえいなくなれば、放っておいても自壊する。あなたは、そう考えたわけよね。社内でいやがらせをして、由紀さんを辞職に追い込むのでは、あなたの管理能力が問われるばかりか、あとくされも悪い。そこで、インクナスのキッドナッパー当身師に由紀さんを狙わせ、何回も何回も気絶させることで、しだいに由紀さんを追い詰め、辞職させる方法を思いついたってわけよね。もっとも、まさか、由紀さんが、あたしたちエテルナに助けを求めることになろうとは思わなかっただろうけど」
"女子高生"は、可愛らしい微笑みを浮かべながら、スナップのきいた平手打ちを沢本の右頬にみまった。
「な・・・なにが目的だ?! おれに何をしろ、というんだ」
 沢本が、恐怖を跳ね返すように叫んだ。
「由紀さんの出した辞職願を破棄しなさい。部の職員全員が見ている前で、ね」
"女子大生"が、沢本の髪をつかんで引き上げながら、冷たい声を放った。
「・・・そんなこと・・・」
という沢本の腹に、"女子高生"が鋭い蹴りをくれた。華奢な体つきから繰り出されたとは思えない衝撃に、沢本は横倒しにさせられた。
「やるのよ」"女子高生"が顔を近づけた。「やらなければ、全部ばらすわ。それでもいいの?」
 沢本の心が揺れはじめた。社会的地位を失うことの恐ろしさが、彼の眼球を落ち着かなくさせていた。
 だが、"おままごとは、そこまでにしてもらおうか"、という声を後背に聞き、二人の女は、振り返った。そこに男と女が立っていた。女たちは、その女が由紀であることに驚愕した。
「ゆ、由紀さん・・・!」
「わたし・・・」由紀がつぶやくように告げた。「エテルナとの契約を解消します」
 その言葉に、女たちは愕然となった。
「由紀さん、だめよ! そんな男の催眠術なんかに負けちゃだめ! あなたを救えるのは、あたしたちしかいないのよッ!」
「そんなことしないで・・・」と、言いながら、由紀は、恋人をみる目で男を見上げた。「そんなことしたら、この方が苦しむじゃない」
 彼女の後ろで、嘲弄の笑声が爆発した。沢本の狂ったような笑い声であった。
「ざまあないな! これでもう、お前たちとサワイくんをつなぎとめるものは何もない。お前たちの負けだ!」
"そんな・・・!"−二人の女の双眸が屈辱に大きく見開かれた。
「ちくしょうッ!」
 女たちは、力づくでしか由紀を奪還できないことに気づき、正面から男に挑みかかった。
「見せてやろう」と、男は静かに言った。「獅子の放つ必殺の拳を」
 並んで突進してきた二人のキャミソール戦士の繰り出した右拳は、ともに男の頭部の両脇の空間をうがったにすぎなかった。フェイントをしかけたわけではない。二人の腹には、男の突き入れた左右の拳が、すでに激しくめりこんでいたのである。
「あうんっ・・・!」
「おあう・・・!」
 半瞬にもみたないタイム・ラグが、しかし、女たちと男とのうめられない力量の差であった。女たちの繰り出す拳の速度など、男の動体視力の前では、蝶のはばたきのように緩慢なものにすぎない。男は、避けるまでもなく、それに数倍する速度の当身を先制して発動させ、女たちのキャミソールの腹に拳を深々と埋め込んだのである。したがって、女たちの拳が男の頭部に到達する前に、その視界は暗転させられていて、自分たちの拳の行方どころか、あらゆる感覚が気絶の沼に沈降してしまっていたのだった。
<つよ・・・すぎる・・・>
<・・・勝てない・・・>
 二人の女は、消滅する意識のなかで、はじめて男に対する恐怖を感じた。男とは、強いものなのだということに、はじめて気づいたのである。が、むろん、それも遅きに失していた。
 殺陣師に稽古をつけられたような美しい倒れ方で気絶する女たちを、男は、すかさず両肩に担ぎ上げた。その男の胸に、由紀がそっと寄り添う。目が欲情に濡れていた。
「すごいわ。すてき・・・」
 オス雄の魅力が、由紀の全身を支配している。催眠下で植え付けられた意識や思考が、女の理性を浸食しはじめていることに、男は気づいた。自分の識閾下に弱さを閉じ込め、過酷な競争原理で自分自身をすり減らす日々が、限界に達しようとしていた時、彼女は、強烈な催眠術によって、自分が隠蔽しようとしていた女らしさ、脆弱さのすべてを表面にひきずりだされたのである。あらゆる拘束から解き放たれ、たががはずされた由紀にとって、男にしだれかかり、依存しきることの易しさは、催眠以上の甘美な麻薬なのであった。このぬるま湯から出ようなどという気持ちが、崩壊した理性世界から生まれるようなことはないと思われた。
<完全におれの女になるのも、そう遠いことではないな・・・>
 そう思いながら、もつれまとう女を押しのけ、沢本のもとに向かう。
「まったく何やってんだ、ぐずぐずしやがって。なにしろ、F社との会談は明日だったんだからな。だが、まあいい。これで、もう胃が痛くなるような毎日をおくることもなくなったわけだ。ああ、そうだ。感謝しなきゃな。助かったよ。その女たちときたら、こともあろうに、このおれを・・・」
と、滝のように繰言を垂れ流しはじめる、その男の腹に、"レオ"は、痛烈な右足の蹴りを炸裂させた。
「おうっ・・・!」
 沢本は、目を丸くしたまま、前のめりに倒れて、気絶した。むろん、パワーを充分に絞った足技であった。10分程度すれば、目覚めるはずである。
「由紀、おれの尻のポケットに入っているナイフで、この男の縄を切ってやれ」
 由紀は、愛する男の命令に素直にしたがうと、慣れない手つきでナイフを扱い、沢本を自由にしてやった。"レオ"としては、別に沢本を助けたわけではない。ただ、彼をこのままにしておくことはできなかった。ここで手間取っていると、エテルナの援軍が差し向けられる恐れがあった。
また、沢本には、社にもどり、インクナスが契約を無事履行したことを、社の上層部に報告させる必要もあった。だが、この男は、インクナスを都合のよい便利屋のように考えているふしがあった。インクナスを統べるものは、ただ一つ、死の律法であった。それは、場合によっては、インクナスとの契約者にさえ及びことがあることを教えてやる必要があった。彼の腹に打ち込まれた蹴りは、いわばその警告であった。
「二度と、おれの前に現れるな」
 悶絶している沢本に、そう言い残すと、由紀を連れて、外の車に戻った。
 二人の女を後部座席に押し込めると、まず、"女子高生"の鳩尾に、高速回転する右拳を突きこむ。若い張りのある筋肉が、ずん、と音をたてて沈み、
「あん・・・」
という、か細い吐息とともに、少女は深く気絶した。
 つぎに、反対側に回り、頭をシートにもたげて意識を失っている"女子大生"の腹を、左のアッパーカットでしたたかに突き上げる。
「う・・・」
 衝撃がシートにまで伝達し、その反動で女の頭はがっくりと前にのめった。
 男は、半身を車内にいれると、両手で二人の女の左胸を揉みしだいてみる。いずれも、良形の美乳と思われた。
<これなら、高く売れるな・・・ただし、対象は、SMマニアということになるが>
 この女たちからは、いろいろ聞きたださなければならないことがある。それは、彼の仕事ではなく、インクナスにいる拷問のプロの手にゆだねられるのだ。彼らに虐待されるシーンを撮影し、自白した後は、そこまでの過程で体に染み込まされたマゾヒズムをつかって売り飛ばす。どんな女にも商品価値を与え、利益を生み出させる。インクナス得意の商法であった。
 男は、コンソールボックスから手錠をとり出し、二人の女の両手両足にはめ、腕とドアををつないで、逃げられないようにした。その上に毛布を被せる。顔だけを毛布から出した二人の女は、傍目には、眠っているようにしか見えない。
 男は、助手席をあけ、由紀を座らせた。薄茶色のシックなツーピースのスタイル。8つボタンのジャケットは、ややタイトであるため、胸の大きなもりあがりやウエストの見事なくびれが強調されている。同色のスカートは、自然であるが、桃尻の豊かなふくらみが、はっきりとした線となって表れている。
「お前のここでの記憶を消すために、気絶させる。どのように気絶させられたいか、言え」
「ここの・・・みぞおちを・・・」
と、言いながら、女は、たおやかにシーツに体を預け、しびれたような視線が哀願するように男をみあげる。
「あなた様の拳で一撃してくださいませ。かよわな由紀は、あっという間に気を失います」
 男は、女の言うとおり、左拳を軽くジャケットの中央に突き込んだ。胸によって大きく持ち上げられた、その真下の陰の部分に男の拳は、弾力豊かに埋め込まれ、内臓方面に突き入れられた拳の先端めざして、無数の皺が幾条も走った。
「うふうん・・・ふ!」
 力をぬいて男の当身を待っていただけに、由紀は、その一撃で完全に昏倒した。
 男は、運転席につき、車内を見回した。困難な任務が、終わりを告げたのである。
 男は、無表情で車をスタートさせた。男の心に、安堵はない。このままエテルナが黙っているはずはない。彼には、従業員として喫茶店に潜入させていた仲間を殺されているのである。彼らがインクナスに、というより自分に明確に照準を合わせて刺客を送ってくることも、充分に考えられる。エテルナとの次なる戦いは、すでに始まっていると考えてよかった。
 だが、むろん、男の心に恐れもきょうだ怯懦もない。立ちはだかるものは、誰であれ獅子の牙で噛み裂き、打ち砕いて鮮血と肉片にまみれた道を前進する。それ以外の選択肢など、考えたこともなかった。
<この次も、おれが勝つ・・・>
 男は、決意に目を細めると、アクセルを踏む右足に力をこめていく。